奈良県議会議員 山下 力
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山下 力 の 活動レポート
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「あり方提言委員会」の「提言」批判 2007年09月05日

   「部落問題に関わる行政と部落解放運動の
    あり方提言委員会(座長 八木晃介)」の「提言」
                            を読んで。
                     
             奈良県部落解放同盟支部連合会
                   理事長  山 下   力

 奈良市の一連の「同和不祥事」の露見にあわてふためいて川口グループ(部落解放同盟奈良県連合会・委員長 川口正志)は、今後の自らの進む道を見失ったのか、それを「有識者」に丸投げしようとしてきた。その「提言」は、座長の八木晃介氏が自らの「試行通信」で吐露されているように、変革の対象と方法をズバリ提言するものとはならず、各委員の問題意識の中から出された課題を羅列して川口グループの執行部に投げ返すに止まっている。好意的な同伴者に甘え、自らの責任と任務を放棄してきた川口グループにふさわしい当然の帰結であると思う。私たちの経験に照らしても、部落解放運動の変革のすじ道を実践の試行錯誤をくぐらせずに明らかにしていくのは容易なことではない。この「提言」が、今日の部落解放運動を取り巻く状況の核心の部分で課題を取り違えているのでは、と思う視点をとりあげて今後の論議のたたき台にしていただきたい。

〔1〕、新たな解放理論の構築・整理がなければ何一つも始まらないのでは。

 「提言」は、いわゆる朝田理論における行政闘争論や「近世政治起源説、悲惨貧困史観」が崩壊したと指摘して、“差別は観念である”とする辻本理論を基軸にしたもう一つの解放理論の構築が求められている、と述べている。しかし、川口グループは自力でその構築が困難だとして今回の「提言」を依頼したのではなかったのか。だとすれば、もう一度、「有識者」にボールを投げ返すしかない。この提言を「催促もち」と承知して、早急に、学者・研究者など「有識者」にもう一度依頼して理論委員会を立ち上げてもらわねばならないだろう。これが概ね整理されない限り、運動の方針も綱領もあったものではない。ましてや、おおむこうの関心を呼ばんとしての「部落民」以外の人々の同盟員登録云々も意味を持たないことになる。新しい解放理論を構築するのであれば、少なくとも「部落とはなにか」「部落民とは誰のことか」「部落差別とは何か」「部落解放とはどういう状況をさすのか」が明らかにされることを期待したい。

〔2〕、「実態調査」は旧来のものとどう違うのか。
 
 「提言」は、運動方針の立案とその方針に基づく行政交渉をおこなうために部落の実態把握が不可欠である、として解放同盟による主体的な運動としての「実態調査」を求めている。そして、こと細かに調査の手順をのべて、その計画立案と実施を急がせているのであるが、はたして、これまでと同じく、生活実態における周辺地域との差異をあげつらうためのものなのか、との心配がある。「提言」のなかでも朝田理論における行政闘争論は崩壊した、とのべているように、「‘65同対審・答申」路線はすでに破綻してしまっているのではなかったのか。部落と周辺にあった較差が概ねなくなったのに部落差別は残存していることで十分証明されている。 いま必要とされているのは、むしろ、(提言1)の〔7〕で触れられている「部落民」全体を対象とした意識調査ではないか。すでに私たちが組織をあげてとりくんでいるところであるが、私たちがその調査を実施する目的は「部落民」にとって本当に部落解放運動が必要とされているのか否かを判断するためであって、断じて行政交渉のネタ探しのためではない。

〔3〕、「糾弾」と「行政交渉」が部落解放同盟の生命線であり続けて得るものは何か。
 
 「提言」は、差別を許さない闘いとしての糾弾と、自治体の責任を追及する行政交渉を改めて部落解放運動の生命線と位置づけ、闘争の方法論として堅持する必要があるとしている。一連の「同和不祥事」とそれに関わるマスコミ報道に萎縮して私たちが糾弾それ自体、行政交渉それ自体を自粛していると心配してハッパをかけてくれているのかもしれない。しかし、お節介なことであり、かつ迷惑なはなしである。いま改めて糾弾や行政交渉に心おどる見通しが持てるならば部落解放運動の活動家がなにも悩むことはないのだ。
 確かに、いま運動を担っている活動家のほとんどが狭山闘争をふくむ差別糾弾闘争と、周辺地区と較べてひと目でわかる劣悪な生活実態をつきつけての行政闘争で部落民としての感性をみがいてきた。しかし、過去二十年近くの間、大衆的に組織しなければならないような差別事象の訴えがなく私たちは糾弾集会を持てていない。また、行政交渉にしても、部落内外の生活実態較差がほぼなくなり、較差を突きつけての交渉はネタきれとなって身動きが取れない状況にある。「提言」の言うところに従えば、部落解放同盟の命脈はかなり前から絶たれているというしかない。
 「‘65同対審・答申」と「同和対策事業特別措置法」は、それまでカムアウトすることの少なかった部落民にもある種の勇気を与えた。ある人の差別的な言動を社会的に、なるべく大々的にとりあげて、その差別性はひとり個人のものでなく誰しもが社会意識として持ち合わせているものであると追い詰め、行政にしかるべき対策を取らせてきた。1970年代に頻繁に組織された大衆的な糾弾闘争で、だれよりも部落民が目覚めた。行政や教師も、そして企業までもが目覚めたのだ。わが国の高度経済成長が成熟期という幸運にもめぐまれて国・県・市町村の予算は潤沢にあって、「特別措置法」に基づく同和対策の要求は順調に満たされたのである。また、激しい糾弾闘争とすばやい教育や行政、企業等の対応で、面と向かっての差別的言動はほとんどなくなった。結婚におけるバリアも著しく減少してきた。しかし、部落差別は残存しているのである。
 この間、私たちは市民生活の場における差別的言動に糾弾を対峙させてこなかった。個人糾弾でさしたる成果がなく、むしろ「部落はこわい」という意識をかきたてることが多かったという総括からである。だれかの告発を受けて設定されるおおげさな糾弾会より、その場その場の「異議申し立て」を差別との戦いの主たる対応策にしようと提起してきたところである。人間だれしもが差別したり、差別されたりする存在であること、差別的な言動に遭遇したとき、その場で「異議申し立て」できる関係を発展させることで人権文化の基盤をつくりたいと考えているからである。

〔4〕、「関係の見直し」は、共通課題での実践の積み上げでしか。

 「意識を規定するものは関係である」との「提言」の指摘に私も同意する。また、「部落民」と「非部落民」との接触の機会を増やすべきだということも極当たり前のことである。しかし、この当たり前のことをどうするのかがむずかしいのであるが、「提言」は具体の示唆をしていない。
 かつては、水利権とか入会権、氏子という共通の課題で関係を云々する機会があった。いまもないことはないのである。農山村部では人口が減り続け、少子・高齢化の進展で子育てや高齢者介護・障害者介護が地域社会の深刻な課題であり、部落内外に共通している悩み事でもある。しかもそれらの課題は、字・大字という集落ごとに対応できるものでなく、少なくとも小学校区・中学校区の単位で、場合によっては市町村をこえて対応を迫られているものもある。ここに着目したい。
 すでに私たちは実践にふみこんできた。同和対策で設置した児童館で子育て支援活動や学童保育を部落内外貫いて展開しているし、高齢者介護支援センターや小規模多機能介護支援施設も部落内外オープンに運用しているところである。また、支部と小学校の同和教育推進グループの協働で福祉法人を立ち上げて知的障害者の通所作業場を設置し、「生きあう力」の拠点として注目をあびている。
 このような実践はいまはじまったばかりである。「部落民」と「非部落民」の多くの接触があるわけでもない。しかし、誰ひとり、「提言」にいうところの部落問題の「媒体=広告塔」ではないけれども、これらのとりくみが「関係を変える」拠点になっていく可能性を秘めていると確信しているところである。

〔5〕、活動家集団でもなく大衆団体でもなく、自立した個のネットワークを。
 
 いま私たちに問われているのは、組織の存亡ではなく部落解放運動の存亡である。なのに「提言」はあくまでも部落解放同盟の存続を前提にまとめられているようである。「提言」は、「部落差別とはなにか」「部落解放とはなにか」を明らかにしないままに、「部落民」の共通利害を機軸に組織してきた同盟に、“「部落にとって不利益なことは差別だ」というとらえ方には一定の必然性があり、普遍的な反差別の思想と重なる部分がある”と煽っている。このように旧態依然の陳腐な論理で行政交渉の継続を促されても、果たしてどんな戦いが準備できるのか。奈良市で露呈してきた利権や腐敗に歯止めをかけられるのか。どんな要求が組織できるのか、私には理解できない。「部落民」の生活実態は多様である。さまざまな願いをもっている。生活に困窮している人々も依然として少なくない。しかし、それらの課題で部落に「特化」できるものはほとんどないと私は思っている。一方、部落が一つの集落として行政に要求する課題は今後も尽きることはないだろう。自治会としてあたりまえに権利行使すればよいのである。
 また、かつての同盟の行政交渉の歴史の過程で、行政から軽視されていたマイノリティ集団を勇気付け独自の行政交渉の実現に道を開いた歴史に誇りを持ってよいと思う。しかし、いま私たちは、マイノリティの人々のたたかいを支援することができてもかれらのたたかいを代行することはできないし、それをしてはならない。「提言」はまた、今日のわが国の格差社会のなかで、モノトリ主義、部落第一主義への誘惑に歯止めをかけ、部落解放運動が「負け組み」と呼ばれている一般貧困層全体の利益にかなうような手法をとることが、無条件に必要であると言い切っている。私も全く異議がない。それはすなわち部落に「特化」した施策を求めないということであるからだ。
 私たちにとってまことに辛い予測であるが、今後、大衆団体であれ活動家集団であれ、部落と周辺に部落解放同盟という運動団体は必要ないのかもしれない。切実にもとめられている「子育て」支援、高齢者や「病者」、「障害者」、外国人らと共々に「生き合う」関係作りで人があつまり組織ができればよいし、様々な環境問題や平和運動、政治活動などにとりくむグループがあって当然である。このとき、部落解放同盟という組織に居場所はない。否、邪魔な存在になるかもしれない。われらが同盟の存在を行政に対するカマシや威圧に使えると考えているひとがいるとすれば、そんな人と私は友達になりたくないのだ。私たちは部落解放運動のなかで、いろんな経験を積み重ねてきたことを誇りに思う。いま、自分が最もこころ揺さぶられる課題に集中するために三々五々、分散するときでは、と思う。その上で、人権ネットワークのつなぎにこれまでの同志のつながりが生かされれば面白いのでは、とひそかに願っているところである。

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